うかぶ疑問の続きです。
精神的にちょっとダメージを受けそうな人は速攻でどこかへ去ることをお勧めします。
怖いもの見たさの人は反転でお願いします。
私の大学の中ではよくこのような台詞を聞きます。
「だって、ゆとり世代だからしょうがないよ」
私はこの文に対していつも疑問を感じるのです。
なぜそんなにも、自分の可能性を信じていないのだろうかと。
確かに私たちはゆとり世代です。
周りの大人もゆとりの教育で育った人間がどのくらいの教養がないのかを理解しています。
「今やっている範囲は昔は高校でやっていたんだよ」
私たちの生まれる前のことがどうだったかなんて、知る由もありません。それでも、昔のほうが人は賢くあり、心も温かかったことは知っています。それが、どこから来ているかは、やはり教育からだと思うのです。
今、私たちの世代は「コミュニケーション不足」だの「理科離れ」だの「学力低下」だのいろいろいわれます。私が15歳の頃、新聞の一面に大きく載った『日本の15歳学力低下』の文字は日々の青春を生き抜くのに精一杯だった私に大きなショックを与えました。
そんなふうに育てていったのは、まわりの社会や親達なのに。
自分たちは大変だったから、せめて子供には楽になって欲しいから。
そんな願い、今となっては育ててもらった恩を一瞬忘れて大きなお世話といいましょう。
厳しい環境であったからこそ、学んでいくこともあったはずです。人が人として生きていくための力が、周りの人とのいざこざや暖かいふれあいによって培われたこともあると思います。
それを、どうして与えてくれなかったのか!
今となっては悔やまれるばかりです。
そして、こんな風に親のせいにしかできない自分にも絶望します。
誰かに責任を押し付ける生き方しか知らない。
自分の思い通りにならないときは、駄々をこねたり甘えたりすれば周りが助けてくれる。
このような軟弱な精神が育ったのはやはり、ゆとり教育のせいなのではないかと思います。
勉強は、いわば自分との戦いです。受験があれば周りは皆一応競争相手になり、それでも一人孤独に勉強をしそして、自分の希望の学校に進学する。
その流れを経て、長い間一人で頑張ってきたという自信とやり遂げることができたという達成感を得られるのではないのでしょうか?そしてそれは、生きていくのに重要な活力となり将来を支えるものとなると思います。しかし、いまではAO入試や推薦入試などほとんど勉強をしないで高校や大学に進学できます。それは、強い精神を培う機会を潰していることにしかなっていないと思います。
今では、「かわいい子には旅をさせよ」や「若いうちの苦労は買ってでもしろ」という言葉が本当に正しいことがわかります。そのための制度が昔は社会が丸ごとそうなっていたのです。
ですが、今ではそれがなくなりその自信や達成感も身につかないため自分の可能性を信じられなくなっています。そして、そんな現実がいやで漫画やゲーム、アニメといった方面へ逃げていってしまうのだと思います。
これは、自分自身にも言えることですが、社会一般にも言えることだと思います。今や日本の文化などとも言われてはいますが、それを支えているのは、強い精神を培ってきた人たちです。
その人たちのように生きることをしないで、同じ発展は望めるのでしょうか?
だから私は、その人たちのように生きることをあきらめたくないのです。また、あきらめて欲しくないのです。一番最初に書いた「だって」や「しょうがない」などという言葉で、自分で自分の可能性を断ち切ることはしないで欲しいのです。今まで、甘やかされていた分、つらい壁はあきらめる精神も手伝って大きく立ちはだかります。それでも、ここで踏ん張る必要があると思うのです。そして、私たちの世代が日本を支えるべきなのだと思います。
なにやら、読みにくい上によくわからないものになってしまい、すみません。
もし、共感できた方がいらっしゃったらコメントなどをもらえると嬉しいです。
精神的にちょっとダメージを受けそうな人は速攻でどこかへ去ることをお勧めします。
怖いもの見たさの人は反転でお願いします。
私の大学の中ではよくこのような台詞を聞きます。
「だって、ゆとり世代だからしょうがないよ」
私はこの文に対していつも疑問を感じるのです。
なぜそんなにも、自分の可能性を信じていないのだろうかと。
確かに私たちはゆとり世代です。
周りの大人もゆとりの教育で育った人間がどのくらいの教養がないのかを理解しています。
「今やっている範囲は昔は高校でやっていたんだよ」
私たちの生まれる前のことがどうだったかなんて、知る由もありません。それでも、昔のほうが人は賢くあり、心も温かかったことは知っています。それが、どこから来ているかは、やはり教育からだと思うのです。
今、私たちの世代は「コミュニケーション不足」だの「理科離れ」だの「学力低下」だのいろいろいわれます。私が15歳の頃、新聞の一面に大きく載った『日本の15歳学力低下』の文字は日々の青春を生き抜くのに精一杯だった私に大きなショックを与えました。
そんなふうに育てていったのは、まわりの社会や親達なのに。
自分たちは大変だったから、せめて子供には楽になって欲しいから。
そんな願い、今となっては育ててもらった恩を一瞬忘れて大きなお世話といいましょう。
厳しい環境であったからこそ、学んでいくこともあったはずです。人が人として生きていくための力が、周りの人とのいざこざや暖かいふれあいによって培われたこともあると思います。
それを、どうして与えてくれなかったのか!
今となっては悔やまれるばかりです。
そして、こんな風に親のせいにしかできない自分にも絶望します。
誰かに責任を押し付ける生き方しか知らない。
自分の思い通りにならないときは、駄々をこねたり甘えたりすれば周りが助けてくれる。
このような軟弱な精神が育ったのはやはり、ゆとり教育のせいなのではないかと思います。
勉強は、いわば自分との戦いです。受験があれば周りは皆一応競争相手になり、それでも一人孤独に勉強をしそして、自分の希望の学校に進学する。
その流れを経て、長い間一人で頑張ってきたという自信とやり遂げることができたという達成感を得られるのではないのでしょうか?そしてそれは、生きていくのに重要な活力となり将来を支えるものとなると思います。しかし、いまではAO入試や推薦入試などほとんど勉強をしないで高校や大学に進学できます。それは、強い精神を培う機会を潰していることにしかなっていないと思います。
今では、「かわいい子には旅をさせよ」や「若いうちの苦労は買ってでもしろ」という言葉が本当に正しいことがわかります。そのための制度が昔は社会が丸ごとそうなっていたのです。
ですが、今ではそれがなくなりその自信や達成感も身につかないため自分の可能性を信じられなくなっています。そして、そんな現実がいやで漫画やゲーム、アニメといった方面へ逃げていってしまうのだと思います。
これは、自分自身にも言えることですが、社会一般にも言えることだと思います。今や日本の文化などとも言われてはいますが、それを支えているのは、強い精神を培ってきた人たちです。
その人たちのように生きることをしないで、同じ発展は望めるのでしょうか?
だから私は、その人たちのように生きることをあきらめたくないのです。また、あきらめて欲しくないのです。一番最初に書いた「だって」や「しょうがない」などという言葉で、自分で自分の可能性を断ち切ることはしないで欲しいのです。今まで、甘やかされていた分、つらい壁はあきらめる精神も手伝って大きく立ちはだかります。それでも、ここで踏ん張る必要があると思うのです。そして、私たちの世代が日本を支えるべきなのだと思います。
なにやら、読みにくい上によくわからないものになってしまい、すみません。
もし、共感できた方がいらっしゃったらコメントなどをもらえると嬉しいです。



